「母さーん!ただいまー!!」

嗅ぎなれた匂いで肺を膨らませ、堪能するように吐き出しながら俺は声を上げた。







青い果実の冬ごもり







どんよりと雲の立ち込める空の下、タクシーと電車を乗り継いだ上にテクテクと約五十分。

歩き通してたどり着いたのはこじんまりとした一軒の家。

ベージュのようなくすんだ白の壁にオレンジの屋根。

周囲に倣った外観の中でも、小さな庭とそこにある物干し竿が目印の我が家は、やけに懐かしく目に映った。

マフィアの学校に放り込まれてからおよそ九ヶ月。

夏休みもまともに戻らなかったから、九ヶ月ぶりの我が家ということになる。

あの学校に入学するまで親元を離れたことなどもちろんなかったのだから、感慨深くなってもおかしくないだろう。

しばらく取り出すことすらしていなかった鍵をポケットから探し出し、扉を開けば――記憶と寸分違わぬ様相が待ち構えていた。

壁際にドンと置かれた靴箱も、まっすぐに続くフローリングの廊下も、二階の俺の自室へと繋がる階段も。

何もかもが変わらない。

「あらあらあら!ツっくんおかえりなさい!早かったわねー」

「別に早くはないって。ほとんど予定通りの時間じゃん」

リビングへと続く扉が開いたと思えば、パタパタとスリッパを鳴らして母さんが駆け寄ってきた。

…顔を見るのが久しぶりで、ほんの少しの違和感と恥ずかしさが先行して言葉が少々投げやりになるけれど……母さんは全てを理解しているかのようにうんうんと頷いている。

エプロン姿ということは料理でもしていたのだろうか。

濡れていたのであろう手をエプロンの裾で拭いながら、にっこりと笑みを浮かべた。

「もうちょっと遅いかと思ってごはんまだ出来てないのよ〜。とりあえず、疲れてるでしょうしゆっくり休みなさいね」

「うん」

「お友達も一緒にね」

「う、うん」

母さんの視線が、チラッと、俺より少し斜め右上へと上がる。

やけに楽しそうな語尾。

ニコニコと絶えぬ笑顔…は、いつものことだけれど。

長い間、連絡ひとつよこさなかった息子を前にしても母さんの機嫌がここまで良いのには…ちょっとした理由がある。

それは――。



「ツナがお友達をうちに連れてくるなんて…何年ぶりかしら!」



ポン、と両手を重ね合わせて小首を傾げた母さんの笑顔ビームを一身に受け止める人物が、俺以外にいるからだ。

「どうぞ上がって、ゆっくりしていってね!」

自分の家だと思って、と付け加えながら母さんはリビング…いや、その先のキッチンへと引き返していった。

ニコニコニコニコしながら。

……この分だと、今日は山のような料理が出てきそうだ。

まあ、年をまたぐわけだし、多少派手になるのは構わないけれど…。

「んじゃ、まあ、俺の部屋に行こっか」

靴から踵を引き上げながら、俺はクルリと後ろを振り返る。



だってさ、特に帰る場所もないっていうんだもん。

家はあるけど家族がいるわけじゃないって。

食事も、適当に買って食べれば問題ないとか言って胸を張るんだよ?

ほっとくわけにはいかないじゃんか。



「う゛お゛ぉいツナヨシ………靴脱ぐのかぁ?」



風呂でもベッドでもねえのに?と首を傾げるのは肩に大きめのバックをひとつ引っ掛けた少年。

特徴的な唸り声を上げるその人は……数ヶ月前から、俺と、その……非常に特別な…親密な関係、に、なった人。

「あ、う、うん。そう。ごめんねスク。うち、一応日本式なんだ」

玄関で靴を脱いで、そこにあるスリッパに履き替えてくれればいいから。

そう続けた俺に「わかった」とあっさり返事をしたスク――スペルビ・スクアーロは、ご丁寧にも脱いだ靴をきちんと揃えてくれるという意外な礼儀正しさを披露してくれたのだった。







日本の家は映画やドラマなどで見たことがあるそうで、スクは各部屋の敷居もまったく踏まずに歩いていく。

…一応日本人である俺は、気にせず踏んでいたりするのに…。

俺の部屋へ荷物を置いて、リビングへと降りてきた俺たちは、まず手荒いチビどもの洗礼を受けることになってしまったのだが…。

まあ、それは、スクの一睨みによってランボが泣きながら逃げていくという情けない幕切れだったから、いつもより気にならなかった。

それに……なんだろう。

寮でもわいわいと騒がしい日々を過ごしていたせいだろうか、久々のランボのウザさも特に目立って感じることはなかったのだ。

ザンザスの我が侭っぷりやディーノさんのドジっこ加減の方がよっぽど厄介だった気がする。

……いや、結局どれもこれも、どっちもどっち、という一言に収まるのだけれど、ね。



冬用の厚手のカーペットへと腰を降ろしながら視界をぐるりと回転させれば、大きな窓からは思っていた以上に小さく感じられる庭が見えた。

冷気を吸って大きく膨れた風に晒された庭の草木は、寒そうに枝葉を揺らしている。

チビたちのはしゃぐ声が遠くから聞こえるから…外に出たのか。

なんという物好きな。ちゃんと上着を着ているのだろうか。

「うー…考えただけでも寒い!」

十数分前まで自分も外にいたのだが、想像するだけで寒気が背筋を這い上がるように思えて、俺は四つん這いでズリズリと身体を引き摺る。

居間の中央、テレビの前に懐かしくも愛おしい『彼』の姿を見つけたからだ。

「はぁあ………やっぱり冬はお前に限るよ〜」

足先から突っ込んで、腰元まで『彼』へともぐりこませれば、ほどよきぬくもりに包まれる。

じん、と響くような赤い熱に、俺は身体の芯がとろかされるような感覚を覚えた。

そのまま、テーブルへと頭を預ける。

「う゛お゛ぉいツナヨシ!なんだそれ!」

「へ?なにって………あー……あれ?これは知らないの?」

靴を脱ぐ習慣や敷居やらは知っているのに、こういう基本的なものを知らないっていうのは……なんか意外と偏った知識なんだなぁ、と首を傾げながらひょいっと顔を上げる。

テーブルに凭れ掛かった俺のほぼ真後ろで、目を白黒させたまま立ち尽くしているスクに向かって手招きを。

ヒラヒラと掌を仰ぐたびに、眉間に皺を寄せながらも一歩ずつ近付いてくるスクは…なんだかチビたちみたいだ。

かわいい、なんて表現はスクの名誉のために伏せておこう。

おかしさに唇の端っこが綻んでしまう。

「それ、何に使うものなんだぁ…」

「これ?んー……とりあえず、ちょっと足突っ込んでみてよ」

はい、と少し身をずらし、左隣に人一人が入れる余裕を作りながらスクを手招く。

体験した方が早い。

百聞は一見にしかず?っていうの?

身をもって知った方がわかりやすいし理解も早いに決まってるじゃん。

別段、危険なことなんてないんだしさ。

…だというのに、小さく息を呑んだスク。

おいおい。俺がすでに足突っ込んでるんだから大丈夫だってば。

「あったかいよ?」

「あったかい?」

どういうことだぁ、と中を覗き込みながらそっと腰を降ろすスク。

そんなに警戒しなくても……まあ、中が真っ赤に光ってるから怪しいといえば怪しい、か。

普段何かと豪快に物事を成すスクだけど、未知のものにはこんなに警戒を顕わにするんだ。

ちょっと、意外。

「……お」

「ね?」

「ああ……暖房器具かぁ」

「こたつっていうんだよ」

むかしむかし。

俺が物心つくかつかないかという頃、日本からイタリアへと移住する際に母さんが持ち込んだ家具のひとつ。

イタリアの気候に合わないやも、とやんわり宥めようとした親父をあの無敵の笑顔を丸め込んだ末にこのリビングに据えられた冬の主役。

一度はまり込むとなかなか抜け出せない罠。

「毎年ここに入って、テレビ見ながらみかん食べて。寝転んじゃったらアウトなんだー。そのまま寝ちゃって風邪ひいちゃうんだよ」

毎年毎年、繰り返される冬の習慣。

いくつになっても学習しなくて、よく母さんに叱られたっけ。

それでも、このぬくもりから離れたくないのだ。

「気持ちはわからなくないけどよぉ……そんなに言うほどかぁ?」

「入ったばっかりだからわかんないんだよ。スクも、絶対抜け出せなくなるんだから」

例えばトイレに立つ時。

例えば喉が渇いた時。

出なければならない。外気に触れなければならない。

暖められた体が晒されて、寒さが襲ってくるのだ。

そう。

一度目は立てる。

けれど、再び舞い戻った先、こたつという名の楽園からはもう誰も逃れられない。

「だからきっとスクも――」

パッと。

右隣に座るスクへと顔を向ける。

……向けた途端、しまったと思った。

すごい、大失敗。







だってさ。そりゃね?スクだもん。

学校で、寮で、食堂で、毎日顔を突き合わせていても、スクは……なんていうか……どうしても意識してしまう存在なわけで。

放っておくことが出来なくてうちに呼んでしまったはよかったのだけれど、そこから俺のピンチは始まったのだ。

学校とはまた違う、我が家というとても狭いテリトリーにスクがいる。

俺の隣に。俺の居住空間に。

長年慣れ親しんだ家に、スクがいるのだ。

想像しただけで指先が震えて、身体がぶるぶる振動して、頬に熱が集中する。

だから。

だから、だからだから、極力意識しないようにしていた。

あまりスクの方を見ないようにして。

目も合わせられなくて。

出来るだけ別のものに視界を預けて、考えを飛ばして。

……だけど。

こんなに間近で顔を突き合わせてしまったら……。

いや、そんなの、最初から長くもつわけないんだ。



「……う゛お゛ぉい、やっとこっち見やがったなぁ…」

「う、ぐ…」

しかも気付かれていた。

……そりゃそうか。

あからさま過ぎたかなぁ。

よく考えてみれば、俺すっごい嫌な奴かも。

家に招いておきながら、ずっとそっぽ向いて、全然関係ないこと考えようとして、会話も適当に流して…。

「ごめ、ん…」

「何か、俺に謝るようなことしたのかぁ?」

「え……えっと…その……………ごめん」

口を突いて出た謝罪も、なんだか薄っぺらくて。

情けなさに顔を俯け、縮こまるようにこたつへと身を寄せてしまう。

ああもう、俺……最悪だ。



「――――お前、なぁ…!」



ぎゅっと、手の甲が激しい圧迫感と共に冷える。

冷える?

こたつの中に、突っ込んでいるのに?

指先までしっかりしっとり触れる冷たさは、縋るように力を増してきて。

「謝るくらい、連れてきたくなかったんなら、隣に呼んだりするなぁ…!」

押し殺したような声音に顔を上げれば、スクの耳は真っ赤なのに……目が、口が、鼻が、まったく見えなくて。

俺とは反対側、顔を逸らして部屋の角を見つめているのだろうスクは、じっと動かない。

そっぽを向いたまま、肩を強張らせていながらも手先はこたつの中に。

微かに震えが伝わった。



……なんて、冷たい手なんだろ。



そんなに冷え切るほど、緊張していたのだろうか。

緊張、させていた?

そんなそぶり見せてなかったのに。

……いや、俺が気付こうとしなかっただけか。

それもそうだ。だって他人の家だもん。

人の家にいきなり招かれて、しかも見知らぬ国の習慣に浸された空間で。

初対面の人間ばかりなのに緊張しない方がおかしい。

俺だったら……萎縮して、言葉も発せないかもしれないのに。

ああもう……俺、バカすぎじゃないか。



「スク」

「………っ」

ごめん、はもう言えない。

これ以上あらぬ誤解を生みたくない。

普段あんなにポジティブなのに、ふとネガティブな思考に囚われるスクは、俺に関することだと特に深く沈んで突っ走ってしまうから。

自惚れていると言われるかもしれないけれど、やっぱり……俺だって、スクにとって特別だと思われていたいから。

思い込みでもいい。

だから、その顔を、瞳を、俺に向けてもらうために。



ただ、ぎゅっと。



やけに暖められてしっとりと汗が滲んでしまったけれど、握り締めてくる冷たい掌にこの熱が移るように。

分け合えるように。

伝わる、ように。

指先から、肌から、細胞のひとつひとつから、作り出した熱を共有するために。

意図的に大きく息を吸い込んで、吐き出しながら、瞬きをひとつ。



ちらっと振り仰いだスクの目はびっくりしたように見開かれたまま、俺をまっすぐに見つめていた。

ふと、満足した胸がゆっくり上下する。

オーケー。

どの程度かはわからないけれど、何かが伝わったと、信じたい。

自然と上がった口端を見止めて、スクが僅かに目を細めたから。

うん。

これで、いいや。



「……スクってさ、普段すっごい照れたりするくせに、こういうことはさらっとやっちゃう辺りがなんか……ね?」

「なんだぁ、言いたいことははっきり言えよ…!」

手を繋ぐとか、腕を組むとか、普段人目がある場所では絶対しないのに。

こうやってこたつの中で……人から見えない位置でなら力強く握り締めてくれるのが……なんだかやらしい。

締め付けるような力は失われたけれど、優しく包み込むがごとく握られた手はいまだ人目を憚るぬくもりの中。

離れる気配はない。

「………」

「………」


互いに無言のまま、テレビの音が部屋の隅々まで拡散して消える。

……柄じゃないってわかってるし、気持ち悪いかもしれないってわかってるけど。

でも……ちょっとなら、いい、かな。

じっとテレビを見つめたままの薄赤いスクの顔ちらりと窺いつつ……ちょっとだけ。

ほんのちょっとだけ、スクへと身を寄せる。

傾いた分だけ、肩が触れて。

ピクっと反応したけれど……そのまま動かないスク。

まるで秘め事のよう。

いつチビたちが戻ってくるやもしれないギリギリのスリル。

人の気配がある空間で、熱すぎるくらいの熱が俺の身体を包み込む。

そしたら……手が。

握られた手が、解けて……組み替えられて。

絡むように、指と指が交差する。

掌同士が合わさって……手首の辺りで交差する俺とスクの腕。

格段に増した密着度のおかげで、跳ね上がる心臓が痛い。

ズクズクと、疼くように縮まる内臓。

煮えたぎる熱湯を浴びたように収縮する腹の中。

ああもう。

痛いくらい。

泣きそうになるくらいに。



こんな厄介な気持ち、どうすれば消化されるんだろう。



目元が、酷く、じわじわと……緩みそうになる。

思わず、テーブルに突っ伏しそうになって―――。







「あらあら仲良しねえ」







ぐるぐるとトグロを巻き始めた思考へ、後ろから降り注がれた声。

二人して同時に振り返った先で、やけにニコニコと微笑んだ母さんがお茶を差し出してきて。

――し、ししししし心臓に悪い!!

「もうすぐ晩御飯できるから、今はお茶だけで我慢してね」

そう言い置いて何かに気付いた素振りもなく、母さんはキッチンへと戻っていった。



「……近付いてきたことに気付けねえなんて……お前のママンはすげえなぁ」

「あ、あは。あはははは」

思わず噴出した俺に釣られて笑い出したスクと顔を見合わせながら。

ちゃっかり繋いだままの手に、そっと感謝の言葉を心の中で唱えてみた。

出会えた今年に喜びを。

夜を越えれば始まる来年も、一緒にいられることを祈りながら。







青い果実の冬ごもり





























……出来る限り、青臭い感じを目指して!!
初心に帰って初々しさを出そうとして……不発に終わった気がします。
表現方法の幅を、広げたいぃいいいいい!!!!!!(切実)
と、シャウトしながら。
遅くなってしまいましたが、年始企画最後のひとつ。
アンケート1位の「青い果実 番外編」でした。
ダントツでした……びっくりと同時にとても嬉しかったです!!
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!!
今年も、がんばります!(今年はもうとっくに始まっておりますが…orz)